コネクティブライフデザイン

心の根っこから“ブレない軸”を持ち、自らがデザインする人生へ

白洲次郎から学ぶ、学問の意味

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白洲次郎を知ったきっかけ

私が白洲次郎という人物を知ったのは、父が好きだと言っていたからでした。子は親の好きなもの事を知りたくなると思います。そして私はこのザ・九州男児の父が、なぜ父が白洲次郎が好きなのか?知りたくて白洲次郎の小説を読むことにしました。

小説は難しかった。なぜなら、基本的には戦前の教育を受けた筋の通った文章だからです。つまりは現代の人に合わせた表現や言葉、行間隔ではなく、使われている文字は難しく、表現も文字もびっしりと読み応えのあるを超えた、私にとっては、辞書を引きながら読まなければならないようなものでした。

ただ、読んでみて、この時代の日本に必要なまったく新しい感覚を持った人物だということはよくわかりました。

白洲次郎の学生時代

兵庫県の生まれで、親の商売は大繁盛している状態なのでお金持ち。21歳でイギリスに留学することになりました。

イギリスの大学に行き、論文提出の際、教授に言われたこと。「白洲の論文は、私が教えていることを繰り返しているだけだ。他人の考えを鵜呑みにしてはいけない。まずは否定する、そして再考することだ。私が求めているのは、模範的な正解ではない。私が望むのは、各人のその頭の中で考え抜いたことだ。それが学問だ。」まさに日本の教育の盲点がわかる一言でした。

そして、それを言われた白洲は、「教授、その言葉を僕は求めていたんです。」と、その書き上げた論文を破りながら、学びとは何かに気が付いていったのです。

このシーンを知ったのは、NHKドラマ「カントリージェントルマンへの道」です。

  • 第1回「カントリージェントルマンへの道」
  • 第2回「1945年のクリスマス」
  • 第3回<終>「ラスプーチンの涙」

このシーンはすばらしいと思います。一人一人の主義主張は、考え抜いて間耐え抜いたうえで、これだと思いアウトプットする。そこからさまざまな人の見解を聞き、ディスカッションし、そしてまた新しい素晴らしいアイデアが生まれていくのだと私も思います。自分の最大を出し合うことは、お互いの学びにつながっていくと思うのです。

父親の事業破綻

白洲次郎は、イギリス留学中、送金はできなという母からの手紙。即刻帰国してほしいという内容であり、日本に帰国となった。

そのころ、樺山雅子(白洲次郎の妻)はアメリカ留学から帰国し、日本で白洲次郎と出逢うことに。白洲は雅子に「貴方は私に似ている、貴方は孤独は人だ。ここから逃げ出したいと思っている。自分にあた得られた責任を果たし買い、だけどそうすればよいかわからない。」とそしてここから一緒に出ませんかと持ち掛けた。

 

君は僕の発想の源であり

究極の理想だ

 

親の反対を押し切り、結婚へ。運命的な出会であり、出会うべくして出会った二人だった。すごくお似合いでお似合いすぎるほどお似合いなお二人。

この時代に必要な人物

第2次世界大戦がはじまる前のこの時代にも、日本のかじ取りをする新しいリーダーが必要だった。日本にはアメリカやイギリスなどと外交ができる強烈な人物によって未来が決まっていくその時だった。

そして、国内においても軍人から政治を取り戻さねばならなかった。政治はバランスが重要であり、バランスばかりを大事にしても新しい時代を切り開くことはできないという繊細な能力が必要となっていた。

吉田茂との出会い

あきらめずにがんばろうなんとかなるさ。近衛と吉田の橋渡し役として重量な任務を担うことに。近衛内閣が設立された。白洲は「貴方には高貴なる義務がある。」近衛は「正論を言うのは簡単だ、現実の政治は残酷だ。」白洲は再びイギリスへ、自分の義務とは何なのかを問う旅となった。

学友と教授たちとの会合

主義や立場は関係ない。唯一絶対の根拠は、自分自身の“良心”だと。正しいという漢字、一と止まると書く。“一つの場所に止まる”そう書いて日本語では正しいという意味になる。人間の欲望には切りがない。今こそ我々は良心という一つの場所に踏み止まるべきです。調和の土俵こそがが必要だと。

そして、日本と英国が戦争しないようにと協力を願った。もう二度と悲しい戦争を繰り返さないようにと。だが、感情論だけではどうしようもできないという返答だけが残された演説となった。

時は流れていた

日本と日米の関係はすでに後戻りできるような事態ではなかった。イギリスの学友はいう「熱狂と喧騒がすべてを奪い、本質を見失わせる。喧騒から遠く離れ、心は開いたままで、思いを未来に巡らせる。」カントリージェントルマンの役割は、誰かが戯言と言えば、勇気をもって指摘することだと。

3人こどもたちが生まれた頃

白洲次郎は、1942年(昭和17)帝国水産統制株式会社で理事となっていたが、会社を辞め、都心から田舎(東京府南多摩郡鶴川村)へ移ることにした。武相荘である。日本中が戦争の熱狂にあふれていて、まだ疎開など誰もしていない頃のことだそうです。

ニチレイの歴史をひもとくと、戦時下1942年に設立された帝国水産統制株式会社から、終戦直後にいち早く日本冷蔵株式会社として再スタートを切ったことに始まる。

理事  白洲次郎

戦前、英国ケンブリッジ大学に留学し、戦後は終戦連絡事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官を歴任。1937年には35歳で、日本水産の取締役外地部部長に就任し、帝国水産では理事を務めたが、政府のやり方に不満を抱いて退任する。以後、吉田茂の側近として多方面で活躍した。

 

第1回「カントリージェントルマンへの道」

40歳、白洲次郎の一つ一つの選択が、すべて潔く先見の目を持っていた。いつか自分がなすべき責任を果たす日がくると、今はお百姓さんになっていた。その意志は、何かを所有するのでもなく、“正しい”という日本語とイギリスで学んだカントリージェントルマンの精神がうまく白洲次郎という人物として織り交ざり、日本に欠かすことのできない重要なリーダーとなるべくしてなった、真のかっこいい人でした。